今回はどろー氏が宿泊に着ておりました。
関東の荒波にもまれたようで辟易しておりましたが、最初に新宿にいったのでそれも道理かと。
私も連日予定があり完全に別行動でしたが、最後の会食が面白かった。
題はソ連の科学力についてでした。
主眼は、KGBとしてのソ連、戦闘機デザインとしてのソ連、そしてロシア構成主義としてのソ連。
どろー氏によると、ソ連の戦闘機は米軍のそれと比較すると、きわめて合理的なデザインをしている。
それはまるで人の手にフィットし、可能な限りの書きやすさを追求した万年筆の形状を想起させる。
そういう点で、「人間的な」デザインをしているといいました。
実のところ、それを聞いたときはちょっと違和感を覚えました。
「合理的」という点にひっかかりをおぼえる。
これは私がまずここ数ヶ月は、ロシア構成主義が念頭にある考え方をしていたので、「合理的」という言葉は人間の感情を全く欠いた機械の冷たさ、極端なほどの正確無比、つまりは「機能性」のことを「合理的」と捉えていたためだと思われます。
そういう点で、「あ、そういう見方があった」と気づかされました。
「合理性」という言葉は、この酒の席においては、二面性を含んだ概念でした。
可能なかぎり人間の感覚に近づいた、使いやすい道具としての合理性。
全てが完璧に幾何学により構成された機械の、涙が出るほど美しい合理性。
ロシア構成主義は、ロシア・アヴァンギャルドの流れの1つ、主に建築・絵画の分野におけるバージョンでした。
しかしロシア・アヴァンギャルドはそれだけではなく、いってみれば産業デザイン全てに影響を与えた存在なのです。
それは洋服だったり、陶器だったりと、人々の生活にきわめて縁の深い場所にアプローチしたスタイルだった。
そこには当然、兵器デザインもあったはずです。
現在においても、その影響を受けていないはずがない。
では機械美学を心棒したロシア・アヴァンギャルドのアウトプットのひとつであるはずの戦闘機が、なぜこれほどまでに人間的なデザインなのか?
この問いに対して、この会食はまず現段階における回答を引き出したように思います。
それは
「人間=機械」
という簡潔な式で定義できるのではないか。
レーニンが列車にのって、亡命先からモスクワに帰ってきたあの時代、機械と人間はこれまでないくらいに概念としてお互い近づいたのでしょう。
人間と機械がどんなに接しても、おそらくそれは「≒」の境界線を超えることはできない。
しかしソ連はこの時代にデザインにより、nearly equalを完璧なequalにまで格上げしてしまった。
この現象により生まれたのが、
「人間のように温かみをもった機械」
であり、
「機械のように冷たさを帯びた人間」
であったわけです。
だからこそフランカー、ハインドD、ミグなどの兵器は、きわめて人間らしい要素をもつ機械でありえた。
しかし人間は逆に機械に近い存在となり、その影響をもろに受けたのが、KGBという非人道的な情報組織であった。
たしかに米軍とソ連軍を比べてみて、その印象を覚えました。
映画「アイ、ロボット」
は原作がアイザック・アシモフであるという話です。
人間の心をもったロボット。
それを描いたアシモフがロシアで革命の年に生まれたという点も、まったく無関係ではないのではないでしょうか。
そして総結論は、
「ソ連の科学力は世界一」。
どっかのラノベのセリフかもしれません。
とてもすっきりした、よい時間をすごした気がします。
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